6.桓武天皇が祀った北極星の地

桓武天皇(第50代)は都を大和から山城へ移したが、遊猟を好んで、淀川を下り、交野地方の山野へそのため行幸がたびたび行なわれた。
宮人たちもこれに倣って遊猟を楽しむものが増え、また、なかにはこの地方の風物を愛して、これを詩歌に詠ずるものもあり、当時交野といえば宮人たちの行楽の地となっていたのある。

ところが当時一種の学問として「陰陽道」なるものがあり、日月星辰の運行や地上及び空中の自然現象を観測して、人間生活一切の基準はそれによって求められると信じられていた。
この考えは科学の進んでいない当時の宮廷、社会、家々の日常生活内まで、強く影響していた。
このため宮廷には陰陽寮なる役所があって、その観測で年々の暦を立て、あるいは天皇の国政について進言したりしていた。
桓武天皇は延暦6年(787年)役所の進言により、宮廷内の不祥事をはらうがために、現在の枚方市片鉾の野に祭壇を設けて北斗星を祀られた。
こんなことのために当時の宮人たちの間にも、天体を崇め、それに関心を持つことは非常なありさまであった。
したがって交野が原で遊猟する宮人たちが、この地方の山、川、野、お宮、村など眼に触れるものすべてを天体にあわせ、種々の天上のものと見たのである。
私市私部地方の肥沃な野にあま田の名があったのを天田とし、そこに祀る宮を天田の宮、そこを流れる川を天の川と名を改め、七夕の伝説からこの川にかかる橋をかささぎ橋と名づけた。などである。

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(参考資料:交野町史1&2)