3.皇后の領地と肩野物部氏の盛衰
物部一族は、神武東征のはるか以前に、北九州から瀬戸内海を経て畿内にやってきた集団であろう。当時は上町台地の東は淀川や大和川が流れ込む巨大な河内湖があり、その岸辺は現在の枚方あたりではなかったかと思われる。彼らは淀川をさかのぼり、その支流である天野川を伝って大和に入ってきた。
農耕文化が伝わった頃の稲作地は沼沢地を利用した自然灌漑だったので、北河内の西南部や中河内の大部分が最適の稲作地となり最初の農耕の村々ができた。しかし、ここだけでは狭くなり、更に水量の豊富な河内南北にさかのぼり、北河内の茨田地方から天野川等の沿岸低地にその耕地を求めた。そして河内の多くの部分は物部一族の領地になったのである。
6世紀の終わりごろ、敏達天皇は、皇后「豊御食炊屋姫尊」(とよみけかしやひめのみこと)のために、皇后領として全国の稲作良田を求めた。その選のなかに当時美田で名高かった河内方野のあま田が入っていた。
その頃、大和朝廷では蘇我馬子と物部守屋の間に勢力争いがあり、馬子は敏達天皇の皇后として豊御食炊屋姫尊を推したが、守屋は先祖伝来の方野のあま田を皇后領として差し出し、忠勤を示したのである。
いらい、この田をまもる民部は皇后のための労役するものとして「きさいべ(私部)」と称する農村落が出来たのである。
これにより、肩野物部一族は後退し、さらに物部守屋は聖徳太子及び蘇我馬子の兵によって滅ぼされ、河内その他の所領は奪われ、交野地方での物部一族は潰えたのである。
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(参考資料:交野町史1&2)
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